悩める大学生の徒然日記

不安、悩み、考え事

未知の領域

家に帰るにはまだ早い18時。用事があるわけでもなく、フラフラとやってきた新しい本屋。ビジネスやプログラミング、心理学の本を買う気は無いが読むのが小さな楽しみであった。だが立ち疲れてバイトも削られた明日何をしようか考え事に耽りながら帰路につこうとした。だが、帰ってもやる事もないのであまり通ったことの無い道を使い古しの折りたたみでぶらついていた。

 

ふと通りすがった会社の門を出る1人の男。暗くてよくわからないが、30代前半くらいだろうか。ただそれだけの、何の変哲も特徴もない男。そもそも町で出会った人なんて年齢くらいしか印象はないだろうが。ただ視界に入っただけなので特別気にもせず無意識に飛ばそうとした瞬間、

 

その男は会社に振り返って、一礼した。

 

私は二度見した。いや、別に社会的におかしいことなどない。礼をするという行為は寧ろ良い行いの一種である。だが、理解が追いつかない。

何故礼をした?何に対しての礼だったのか?

付近には同僚や守衛の姿は無かった。その奇行に支配された頭は珍しく重い腰を上げた。

一般的な帰り際礼をする状況を思い出してみた。上司や先輩に対して「お疲れ様でした」に添える時。長々とした講話が終わり壇上を去る校長が国旗?に対して行う時。すぐに思いついたものはそれくらいだったが、あの男に該当するようなものは記憶には無かった。

 

何か分からないものに共通するもの。それは恐怖だ。人間は自分の知っている範囲で身を固め、範囲外に手を出すことは殆ど無い。あるとすれば幼き頃の好奇心か身の程知らずの若者か、或いは一大決心の冒険家か。

ただその自分の領域範囲外に出ようとする行為は決して戒められたものではない。寧ろ世の発展には欠かせないものとなっていることは想像にかたくないだろう。

 

どちらにせよ是非は問われ、まるで環状鉄道のように論争は続いているが、ここで1つの指標を掲げたいと思う。

「思い立ったが吉日 それ以外は全て凶日」

「人生死ぬこと以外はかすり傷」

この言葉らが僕の原動力となっており、どちらかといえば後者の領域外に出ようとする考えだ。

確かに領域内で生きていればいずれは成果が出る。例を挙げるなら予備校講師の林修先生。彼は予備校講師を本望してなった訳ではないという。だが、実際はそれで成功し成果を挙げている。つまり自分の意思でなくとも出来るものをやればいいという考えの代表例だ。

もちろん自分が出来ないことに挑戦しようと言っているのではない。自分は経験が無くとも、興味関心があるのならば究める道に進んだっていいじゃないか、そしてその道が本線でなくとも、少なくとも趣味であったり他人より優れたものになるに違いない。

 

つまりは大人になって責任も問われ金銭も時間も限られたからこそ子どもの頃の好奇心や探究心がある童心を持った人は色んな意味で強いと思う。